酒匂隆雄の畢生の遊楽三昧 sakoh

立ち往生の思い出。

2020/12/19

関東では好天が続くが日本海側では大雪が降り、その影響で新潟県の関越自動車道で丸二日以上も車が立ち往生する状態が続いたらしい。

テレビのニュースで見たが、あれは切ないだろうなあ。

ガソリンさえ有ればエンジンを掛けておけば凍死はしないが腹は減るし、お手洗いにも行きたくなるだろうし、とんだ災難だ。

これに比べればどうってことはないが、筆者も東日本大震災の折に小田原市内の国道1号線で8時間以上立往生し、大変な目に遭ったことがある。

あれは2011年3月11日の午後3時少し前。
友人と御殿場でゴルフをやっていて、最終18番ホールのティー・グラウンドに立った途端に地震が襲ってきてゴルフ・カートがガタガタ揺れ始めた。
最初は二日酔いで頭がふらふらしているのかと思ったら通信関係の仕事をしていた同伴競技者が”これは大地震です。恐らく大変なことになっていると思うので、お先に失礼します。”と言ってクラブ・ハウスに向けて走って行った。

そんなに大変な事とは露知らず、残った3人でプレーを続けてクラブ・ハウスに戻ると停電している。
勿論、お風呂にも入れない。
どういう訳か(?)クレジット・カードの決済は問題なく終わり、帰ろうとしたら東名高速が不通になっていると言うので、箱根を超えて小田原経由で帰ることにした。
小田原までは何の問題も無かったが西湘バイパス(勿論不通になっている。)方向へ曲がる手前くらいから凄い渋滞になってしまい、全然前に進まない。
2時間くらいで100メートルも進まない。
その時に乗っていた車(NISMO 380RS.)にはテレビが付いていなくて、ラジオ以外の情報は全く手に入らず、宮城県沖で大地震が発生し大きな津波が襲ったと言う事以外は分からない。
止まっている時、小田原市の街頭放送で”津波の恐れがありますので至急高台に避難して下さい。”と繰り返し言っているのだが、”どうやって避難するんだよ。車を置いていくのか?いざとなりゃあ車の屋根にでも上るさ。”と一人で呟いていたが、家に帰って宮城での津波の惨状を目の当たりにして真っ青になった。

結局家に帰り着いたのは日が変わった翌日の午前2時過ぎ。
ゴルフ場を出てから10時間も掛った訳だ。

NISMO 380RS.は6速マニュアルで前の車が少しでも動くとニュートラルから1速に入れて発信せねばならず、それでなくとも重いクラッチを度々切るのに往生して左足が攣りそうになった。

腹は減るし、左足は攣り気味だし”ああ、どうしよう?”と思っていたら、たまたま隣で同じ様にスタックしていた赤い軽乗用車のおばさんグループがミカンとアンパンを差し出して、”お腹空いたでしょ?どうぞ食べて下さい。”と言ってくれた。
凄く有り難かったが、満足にお礼をしたかどうかはよく覚えていない。
あの時は有り難う御座いました。

立往生している間ラジオは聴けていたので関東地方での人的被害は殆ど無い事は分かっていた。

勿論電話は通じず、家族とも連絡は取れなかったのだが午後10時頃にメールが繋がった。

-俺のワイン、大丈夫だったか?
-私の事より真っ先にワインの方が心配な訳?
-ラジオを聴いていて横浜は大丈夫だって分かっていたよ。
-大丈夫じゃないわよ。ずっと停電していて怖かったんだから。
-良いから、何時なるか分からんが帰ったら飯食うぞ。

返事は無かったが、ちゃんと食事の用意はしてあった..

テレビ中継で津波の惨状を見ていて、小田原で立ち往生している時に本当に津波が襲ってきていたらと思うと身震いがした。

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プロフィール

さこう・たかお
酒匂隆雄

酒匂・エフエックス・アドバイザリー代表
1970年に北海道大学を卒業後、国内外の主要銀行で為替ディーラーとして外国為替業務に従事。
その後1992年に、スイス・ユニオン銀行東京支店にファースト・バイス・プレジデントとして入行。
さらに1998年には、スイス銀行との合併に伴いUBS銀行となった同行の外国為替部長、東京支店長と歴任。
現在は、酒匂・エフエックス・アドバイザリーの代表、日本フォレックスクラブの名誉会員。

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